■法蔵寺歴世住持
法蔵寺は遊行二祖上人の開山と伝えているが、二世から十五世までが明らかにされていない。七百年を越える歴史のなかでの記録の焼失といぅよりは、庶民の念仏道場であって、寺として形が整っていなかったから、と考える方が自然であるかも知れない。
庶民に阿号・仏号をつけて弔い、過去帳に記録するよぅになったのが十六世に対応し、不明の十セ世を挟んで十八世が中興となっている。
法蔵寺の伽藍が整えられた時期である。
歴世住持は次のとおりで、年代は没年を示す。
開 山 遊行二祖他阿上人真教大和尚
第十六世 覚阿眼察和尚 正保四年
第十八世 興徳院其阿雪道和尚 宝永二年
第二十世 興徳院其阿目缶和尚 享保十一年
第二十一世 東陽院覚阿畠三和尚 享保十六年
第二十二世 文峰軒宣阿弁隆和尚 寛延二年
第二十三世 興徳院其阿弁湖和尚 寛保三年
第二十四世 萬生軒覚阿了獄和尚 宝暦六年
第二十五世 東陽院覚阿量察和尚 明和八年
第二十六世 東陽院覚阿自弁和尚
第二十セ世 東陽院覚阿白法和尚
第二十八世 洞雲院弥阿白弁和尚
第二十九世 東陽院覚阿義天和尚
第三十世 東陽院但阿俊洞和尚
第三十一世 興徳院覚阿但隆和尚 天保三年
第三十二世 興徳院覚阿本立老和尚 明治十三年
第三十三世 慈照院信阿知立和尚 大正十二年
第三十四世 桂光院其阿瑞善老和尚 昭和二十年
第三十五世 桂光院其阿顕寿和尚 昭和十五年
第三十六世 桂光院其阿照雄老和尚 平成七年
一遍以来歴代遊行上人相承の古い「時衆過去帳」は、往生者を阿号により記し、年月を右肩に付記するもので、室町時代初期から過去帳の性格が変わり、現存者を記し、記載されたことが往生の保証となった。
法蔵寺歴世住持により、阿弥陀仏名をもって供養された往生者はかなりの数にのぼると思われる。三春に開かれた寺としては飛び抜けて古いから、その時期もかなり遡ると思われる。普通は大名級は別にして、庄屋級でも墓標を建て過去帳に記載されているのは元禄期ごろが古い例である。
江戸時代以降多く行なわれている日牌式の過去帳は、三十仏を毎日に記し、各日ごとに法名と死亡年月日、俗名などが記される。
法蔵寺にのこされている江戸時代の過去帳肚四冊である。うち三冊は文化九(一八一三年に仮過去帳を浄書したもので、江戸時代初期の元和元(一六一五)年・三百セ十九年前より記載され、死去の年月の順に記す逐年式の古い形のものである。往生者を阿号または仏号の二字で記し、戸主は町名と俗名、家族は戸主との続柄が付記されている。
四冊目は文化十年以降の日牌帳で、表・裏表紙見返しに遊行五十五世上人により六字名号が記されている。
江戸時代以降も歴代遊行上人の遊行廻国が行なわれ、江戸時代遊行上人の法蔵寺御出は、記録に残されている分だけで七回を数える。
この間、天明五二セ八五)年の三春大火によって法蔵寺の堂宇も類焼、仮本殿に遊行上人を迎えた。
二十二年後の文化四年、復興途上の法蔵寺は再び火災に遭い、大門から鐘楼に至るまで全焼した。文化六年に本堂を建立すべき所を避けて仮本堂を建設し、ここに遊行上人を迎えている。近代に入ってからは明治十年と大正元年に遊行上人の法蔵寺御出があった。
法蔵寺は平成元年に開山七百年を迎え、大本堂建立の議が興った。
平成五年に工を起こし、落慶は平成七年が予定されている。
開山以来七百七年目、本堂焼失から二百十年目にしてその偉容を見せることになる。