2月15日は涅槃会!

2月14日はバレンタインデーだそうです。よく知りませんが。
2月15日は涅槃会だそうです。これは私知ってます。
説明しましょう。

涅槃とは、悟りのことです。ニルヴァーナとも言います。その字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すという意味があります。その意味で滅とか寂滅とか寂静と訳されました。また、涅槃は如来の死そのものを指すこともあります。
お釈迦様が涅槃の境地へ入ったこと、つまり、お釈迦様がお亡くなりになりなったことを意味します。2月15日はお釈迦様が亡くなった命日で、それを偲び涅槃会が各寺院で執り行われます。

涅槃会では、お釈迦様が亡くなった時のことが描かれた涅槃図を本堂に掲げお参りします。様々な入寂についての物語が涅槃図一枚の絵に込められています。
例1 薬袋
お釈迦様の枕元の木に描かれている赤い袋が、摩耶夫人がお釈迦さまのために投じた薬の入った袋です。「投薬」という言葉はこの故事が元になったとも言われています。この薬は摩耶夫人の願いもむなしく、お釈迦さまに届く前に木に引っかかってしまいました。
もうちょっとで届くのに・・・残念!

例2 沙羅双樹(さらそうじゅ)
お釈迦様の周りを囲んでいるのは沙羅双樹の木で、日本においては夏椿とされています。向かって右側の4本は白く枯れています。これは、お釈迦さまが入滅されたことを人間や動物だけでなく、植物も悲しんだことを示しています。一方、左側の4本は青々と葉を広げ花を咲かせています。お釈迦さまが入滅されてもその教えは枯れることなく連綿と受け継がれていくことを示しています。葬儀の際、仏壇に飾られる四華花は、この沙羅双樹の故事が元になっています。

・・・といった感じで絵のなかに色々な物語が潜んでいます。説明書を片手に絵をジ~っと観賞してみるのも面白いと思います。ぜひ。

ちなみに、法蔵寺は毎年3月15日に涅槃会(団子撒き)を行っています。おいしい団子も振る舞われますのでぜひご参加ください。

四法印 ④涅槃寂静

仏教が理想とする境地を『涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)』が挙げられます。あらゆる『苦』は欲や執着、つまり煩悩に起因します。だからその煩悩の火を吹き消せば、寂静で安楽な世界に入れるはずです。そのような世界に入ることを『涅槃』ともいい、悟りともいいます。彼岸ともいうかもしれません。煩悩さえなくなれば仏様になれますよ。ということです。ですが、それはとても遥か遠く及ばない境地でもあります。『涅槃』とはサンスクリット語だと『ニルヴァーナ』となります。
煩悩の火が消えることが悟りを開くことであり、同時に煩悩のもとである肉体が消滅すること、つまり死を意味することでもあります。

以上、諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静で四法印となります。(涅槃寂静を除いて三法印とも言います)これが仏教の基本となる教えです。

引用:仏教のことが面白いほどわかる本 著田中治郎

四法印 ③一切皆苦

以前、このブログでも書きましたが、仏教で『苦』とは思い通りにならないことです。私たちの生・老・病・死も自分の思い通りにはなりません。だから『苦』なのです。なぜ思い通りにならないのか。それは、全ての存在が『諸行無常』であり、『諸法無我』だからです。永遠不変の実体などなく、全ては常に変化して思い通りにならない。だから一切は苦だというのが仏教の考え方です。

引用:仏教のことが面白いほどわかる本 著田中治郎

四法印 ②諸法無我

『諸法』とはあらゆるもの。『無我』とはそのあらゆるものに永遠に変わらないものはないということです。昔は、『わがもの』『自分の所有』などというものはないという意味で使われ、執着を離れることを促す意味が強かったようです。
今手元に千円があるとします。これを『私のものだ』と執着しても、夕飯を食べるときなってお腹が空けば、何か食べ物を買わざるを得ません。すると千円はなくなります。また、死んであの世に千円を持っていけるものでもありません。千円は今たまたま縁があって私の手元にあるだけなのです。
私たちは、せめて自分の体だけは自分のものと思っています。しかし、その体だって意に反して年老い、病気になり、死んでいくのです。これも自分の思い通りにならないのですから自分のものとは言えません。
自分の心であっても思い通りにはいきません。思い通りにいかなくて常に苦しんでいます。思い通りになるものなどないのです。つまり、思い通りにならないのに自分のものだと思い込むから、私たちに苦しみが生じるのです。それをお釈迦様は、『執着』と戒められたのです。
後年仏教思想が発展していくと、『無我』は永遠不変の絶対的な存在としての我などないという意味に深化していきます。『無常』と似ているのですが、無常がすべてのものは生滅変化するというところに力点が置かれているのに対し、無我では不変のものはないと否定が強調されています。
『無我』というものが大乗仏教の時代になり『空』という言葉で言い換えられることが多くなります。

引用:仏教のことが面白いほどわかる本 著田中治郎